音楽で「ひとつ」になるな
音楽で「ひとつ」になるな。
音楽で「ひとり」になれ。
音楽で自分になれ。
取り戻せ ぶっ放せ 存在。
これは「NO MUSIC, NO LIFE.」でおなじみのタワーレコードのポスターに起用された、とあるミュージシャンのポスター掲載コメントである。
そう、これはeastern youth 吉野寿のコメント。
今回、吉野氏の言葉に激しく感銘を受けたため、急に思い立って筆を執ることにした。
音楽で「ひとつ」になるな。
なんてセンセーショナルな言い回しだろう。
正直コメントの真意は定かではないので、吉野寿は何がきっかけでこのコメントを発言したのか分かりかねる。
だがそれでも、いろいろと考えさせられる発言だ。
ここからは、音楽で「ひとつ」になるなに感じた筆者なりの考えを述べていきたい。
「音楽」といえば、フェス文化にも代表されるように、多くのリスナーが「ひとつ」になるためのツールとして機能している側面もある。
見ず知らずの人間同士が「音楽」という共通言語のおかげでひとつになれる。
それはシンプルに素晴らしいことだ。
ではここで、音楽好きが集まれるイベントして確固たる地位を確立したロックフェスを例に挙げてみよう。
ロックフェスはさまざまなバンド、グループが出演しジャンルの垣根を越えて音楽好きが大勢集まる。そして同じ空間で各々が好きな音楽を楽しむ。
まさに『音楽で「ひとつ」になろう』を体現したかのような存在だ。
だが私は、ロックフェスという文化に対し少々懐疑的な捉え方をしている。
単純に「様々なアーティストを一度に楽しめるイベント」という点は素晴らしい文化である。それは間違いないし先ほども語った通り。
しかし、ロックフェスを取り巻く状況でひとつ納得いかないことがある。
現在のロックフェスがレジャー化しているという事実だ。
それはつまりロックがポップカルチャーになってしまったといっても過言ではない。
レジャー感覚で、ロックにゆかりの無いライトリスナーが興味本位でフェスに参加するのは、ロックミュージックの発展という意味ではまだ許容できるのだが、メディアの情報によるとロックフェスが数年前から男女の出会いの場にもなっているらしい。
これには腸が煮えくり返る思いがした。
ロックをストイックに追及し、並々ならぬ想いがある故、この事実が許せないのである。
ロックという音楽に精神性を見出すリスナーなどほとんど絶滅危惧種だろうが、私は今もロックに対し幻想を抱き続けている。いつまでも尖った存在であってほしい。
群れるためにロックを聴くな。
ロックとは己との対話であるべきだ。
ロックを聴くことで過去と向き合い、未来へ想いを馳せる。
ロックを感じることで己が形成される。
筆者は数年前からフェス会場へ足を運ぶことがなくなった。
不純な動機で参加する輩が蔓延るロックフェスを観に行こうという気になれないのだ。そんな場所では『音楽で「ひとつ」になろう』とは到底思えないのである。
音楽で「ひとつ」になるな。
音楽で「ひとり」になれ。
音楽で自分になれ。
取り戻せ ぶっ放せ 存在。
自分の存在をこの世界に刻み付けろ。
普段から偏屈な考えの私が、吉野氏のコメントに一方的なシンパシーを感じ、彼が本当に伝えたかったことを無視して憤ってしまったが、吉野氏は真意はどこにあるのか。
今夜はそれをじっくり考えてみたい。
それではまた。
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