「売れてる意味が分からない」と思う人は音楽でより感動できる
アーティストがブレイクし、一般層への認知度が高まると、必ず出てくるのが、売れたことを疑問に思い、納得いかないと息巻く人々。逆にいえば、アーティストの人気に納得いかない人間が増えることは、人気が出てきた証拠とも言える。
いずれにせよ、明確なアンチとまではいかないが、売れたことを懐疑的に捉える層は確実に存在する。
そんな言葉があるのか分からなけれど、今回は上記の人間を「準アンチ」と呼ぶことにする。
「なんで売れてるの?」
「売れている意味が分からない」
「全然良いと思わない」
「準アンチ」はこの辺りのセリフをよく口にする。
近年「鬼滅の刃」がありえないほどの社会現象を巻き起こした。この時も準アンチが大量に発生したことはあなたもご存じだろう。
音楽に限らず、エンタメ産業のほとんどは、大きく支持を集める対象が現れると、それに比例して、準アンチも必ずと言っていいほど同時発生するような仕組みが出来上がっている。
なぜか?と言うまでもなく、人の趣味嗜好は千差万別だからだ。
万人に支持される事象などこの世に存在しない。それは歴史も証明している。
昨今の音楽業界なら「米津玄師」や「あいみょん」を例にすると分かりやすいと思う。
両者とも、今や国民的アーティストといっても過言ではないが、それを認めない音楽リスナーの存在もある。
ここ最近の話でいえば、「うっせえわ」で話題を集めたadoが、早くも「準アンチ」の標的になっている。
「うっせえわ」って歌、聞いててなんだが - 嫌な気持ちになるん... - Yahoo!知恵袋
準アンチはより感動できる人間
※ここからは完全主観で語っている内容なので、気分を害するかもしれませんが、個人ブログですので生暖かい目でご覧ください。
そんな「準アンチ」の考え方を、あなたはどのように感じているだろう。
筆者はとてもうらやましく思う。
「準アンチ」の方々は、対象の良さが分からないのだ。だが、今後の人生でその良さに気が付く可能性を秘めている。今まで懐疑的だった音楽によって、新たな感動を享受できるかもしれないのだ。
それがうらやましい。
筆者は売れていようがいまいが、音楽をフラットな観点で捉える癖がついてしまった。また、初めて聴いた楽曲が自分の好みでなかったとしても、「どこかに良い部分があるのではないか」と考えるようにもなった。
尤も、ガチガチの音楽好きは最終的にみんなそうなると思う。特に、広いジャンルをカバーする「音楽ブログ」をやっている人間は特にそうだ。好き嫌いはあれど、誰しもが冷静に分析できる耳を持っているはず。
話を戻そう。
一旦「懐疑的に捉える」ということが、ファーストコンタクトで感動できた人間とどこが違うのか?
コアな音楽好きは除いて、一般的な音楽リスナーなんてものは、「みんなが好きだから好き」という人間がほとんどだと筆者は考えている。あとは、「売れているからいい音楽なんだろう」という考え方も多いだろう。
言い換えれば、いずれも「何となく好き」という状態。
そういった音楽との接し方を否定するつもりはない。社会生活を営むに当たって必要なときもある。会社や学校で円滑な人間関係を築くため、コミュニケーションツールとして音楽が有効に作用することがあるからだ。
ただ上記のような人間と、一度懐疑的に捉えた人間の「感動の度合い」が同じだとは到底思えないのだ。
つまりゼロからの感動と、マイナスからの感動。
仮に、両者の最大感動値を「100」とすると、ゼロから感動した人間は当然「100」になる。
一方、マイナス地点から計測した場合、最終的な感動値にマイナス分が単純にプラスされる思うのだ。
たとえば、マイナス数値が「10」であれば、最終的な最大感動値は「110」になり、マイナスが「100」であれば最大感動値が「200」になるのではないかと。
さらに理解してもらうために別の例を出そう。
・ヤンキーが更生して、立派な教師になった。
・一度もグレることなく、猛勉強して教師になった。
どちらが立派なのか分かるだろうか。
この例は、漫画「こち亀」でも似たようなエピソードが取り上げられていたのでご存知の方もいると思う。
当然、後者の方が立派である。
考えてみれば当たり前の話で、真面目一筋で頑張ってきた人間の方が、グレて親や社会に迷惑をかけたヤンキーよりも偉いに決まっている。
しかし現実は、ヤンキーの更生物語に軍配が上がるのだ。「元ヤンキー」というハードルが低い分、より人々へ感動をもたらす。
いままで散々迷惑をかけてきたのに「更生してよく頑張った!」と筋の通らない褒められ方をするわけだ。そして、該当ヤンキーの「グレ度合い」が強いほど、「よく頑張った!」と称賛する声は大きくなる。
思慮の浅い人間ばかりで本当に嫌になるが、記事の趣旨とは異なるのでこの辺にしておこう。
上の例を、先ほどの音楽の話に当てはめてみてほしい。
一度懐疑的になった者が、何かの拍子に好きになった際、よりドラマチックに感動できるのではないか。
「なんだこのクソみたいな曲」
と思っていたのが
「サイコー!」
になったときのカタルシスを想像してみよう。
つまり、「クソ」の度合いが強ければ、「サイコー!」の値が大きくなるという話。
これこそが「準アンチ」の人間がより音楽で感動できると考えた根拠である。
懐疑的な人間を感動させるには
お気付きだろうが、今回の話は、「準アンチ」を感動させなければ全く意味のない絵空事に終わる。
ではどうやって「準アンチ」を感動させたらいいのか?
元も子もない話だが、確実に遂行できる方法など存在しない。
他人が一度嫌いになった物を、好きの感情に引き戻すのは至難の業である。
唯一出来ることがあるとすれば、我々のような「音楽」の話題を発信している人間が、各アーティストの素晴らしさを地道に説いていくしかないのではないのだろうか。
それがいつか、懐疑的な思考を持つ人間の目に留まれば、ひょっとしたら考え方を変えてくれるかもしれない。今まで嫌いで仕方がなかった音楽を見直してくれるかもしれない。
たまに当ブログで発言しているのが、「たった一人でもいいから伝わってほしい」という一文。
筆者は、クソのような現状の音楽業界を根本から変えたいと思っている。だが、今の自分にはそんなことが出来る力はないし、今後自分がいなくなるまでに出来るとも思えない。
だから、個人の考え方から変えていけば少しでも良くなるだろうと思って、「たった一人でもいい」という信念で、日々ブログを書き続けている。
筆者の考えに賛同できる方で、音楽情報を発信している方は、ぜひその魅力を多角的に発信していってほしい。
一緒に音楽業界をより良い環境に変えましょう。
今回の記事は、実は以前から温めていたネタで、個人的にはようやく仕上げられて嬉しい限り。
例にもれず、たった一人でもいいから伝わってほしいと思って書いた。
「準アンチ」に向けて書いた部分もあるので、嫌いな音楽に対する考え方を変えるきっかけになってくれたら幸いである。
それではまた。