【嫌い】「歌ってみた」に抱く嫌悪感の正体
あなたは「歌ってみた」動画にどのような感情を抱いているだろう?
筆者はというと、はっきり言えば嫌いな方だ。すべての動画に当てはまるわけではないが、嫌悪感を抱くものが多い。
「歌ってみた」の文化自体が悪いとは思わない。誰もが気軽に歌を発表できる場が設けられたことは単純に素晴らしいことだ。眠っている才能が世に放たれるきっかけになるし、様々な人が音楽を身近に感じられるようになっただろう。
要するに、良い部分はしっかりと認めたうえで、「歌ってみた」に抱く嫌悪感について語っていきたい。
よく槍玉に挙げられるのは「著作権」や「歌唱力」云々の問題である。
たしかにその辺りも気になるポイントだが、私が「歌ってみた」に嫌悪感を抱く理由はそこではない。
「歌ってみた」に嫌悪感を抱く理由
ネーミングセンス
そもそも「歌ってみた」というネーミングセンスが嫌いだ。
”○○してみた”という小馬鹿にした軽薄な物言いは何とかならないものか。
ましてや、「歌ってみた」動画で広告収入を得ている投稿者もいる。そういった場合は常識的に考えて「カバーさせていただきました」じゃないのか。
おそらく「歌ってみた」の黎明期は、本当に軽い気持ちで、文字通り「歌ってみた」だったのかもしれない。「テキトーに歌ってテキトーにアップしています」といった感じの。歌唱力が乏しい場合には叩かれないための予防線にもなっていただろう。
だから、歌も動画のクオリティもド素人レベルなら「歌ってみた」でも構わないが、入念に準備をした後、ハイクオリティな歌と動画を作り上げて「歌ってみた」と言われても違和感しかない。
「歌ってみた」の現状は、様々な楽曲をカバーする傾向にあるが、依然としてVOCALOID曲やアニメソングが歌われることが多い。この事から分かるように、「歌ってみた」というネーミングにはオタク文化の影響が伺える。
「歌ってみた」という言葉自体、オタク特有の控えめなキャラクター性が滲み出ているものの、オタクだからこそ出せる悪意や軽薄な雰囲気に不快感を覚える。そもそもネット用語がそういった物であることも理解しているが嫌なものは嫌なのだから仕方ない。「歌ってみた」に付随する「歌い手」というネーミングも吐き気がするほど嫌いだ。
勘違いしないでもらいたいが、オタク文化自体を嫌っているわけではない。
それどころか、筆者は自他ともに認める重度のオタクである。
元来「オタク」というのは自称するものではないという考え方もあるが、客観的に見れば完全にオタクのそれだ。記事の趣旨ではないので割愛するが、近年増え始めたカジュアルなオタクではなく、目も当てられないほどヤバい類のアレである。長年オタク界隈に身を置いていても、我慢できないネット用語というのはいくつもあるもので、「歌ってみた」もその一つということ。
「年を取って若者文化に迎合できなくなった可哀想な人」
と思われているかもしれない。
しかし、「歌ってみた」がニコニコ動画で正式カテゴリ化された、2007年よりも前の時点で相当嫌っていたため、この想いは筋金入りだし年齢は関係ない。仮に今、中高生だったとしても同じ気持ちを抱いていたはず。
信念が感じられない
「信念」なんていう曖昧な表現をしてしまって申し訳ないけれど、純粋に、「歌ってみた」の「歌」の部分を楽しめないのは何故だろうと考えた時に出てきた答えが「信念」だった。
「歌ってみた」のシンガーは年々増え続けており、本当に歌の上手い人が世界中に沢山いる。それでも、歌を聴いていて違和感を覚えることが多いのだ。別に音痴でもなく声もしっかり出ている。しかもビジュアルだって申し分ないし、実に楽しそうに歌唱している。それでもなぜかモヤモヤした気持ちになる。
上述したが、すべての「歌ってみた」に当てはまることではない。一部の「歌い手」に対する素直な感想である。
こうした「モヤモヤ」は、カバーアルバムでも「リスペクトが感じられない」とたまに指摘されるけれど、あれに似ているかもしれない。
「なんでこの曲を歌っているんだろう?」
「結局再生回数を稼ぎたいだけなんでしょ」
などなど、歌を聴いている最中も邪念が入り続けるのだ。
その人がどんな理由で歌っていようが、稼ぐために歌おうが私が口出しする義理はないけれど、何となく「歌」を愚弄されているような気持ちになってくる。
その結果、聴き終った感想が「歌が上手いけど何だかモヤモヤ」するになってしまう。
つい先日も、爆発的な再生回数を誇る、とある韓国人女性の「歌ってみた」を聴いたが、「上手い」以外の感情が湧かなかった。通常、素晴らしい歌を聴けば「上手い」の他にも様々な感情が湧き、心が動かされるものだ。しかし「歌ってみた」のシンガーにはそれが感じられないことがある。
広告で稼ぐという点に特化するなら、現行の方法は間違っていない。人当たりの良いヒット曲を選べば、検索にも引っ掛かりやすい。その上、及第点以上の歌を聴かせられるなら、大抵のリスナーは納得し高評価もしてくれる。それを繰り返せばファンも付きやすくなるだろう。
でも、
「歌手」としての信念はあるのかい?
と訊きたくなってしまう。
これだけ「歌ってみた」が隆盛を極めているという事は、高い需要がある証拠であり、筆者の考えなど少数派なのだろうが、ここ(信念を持った活動)をクリアしてくれれば、「歌ってみた」自体のファンがさらに増えるはずだと常々思っている。
ただ、信念があったって飯が食えるわけじゃないから、すべての歌い手に要求するのも酷な話だけれど、音楽好きとしてはやはり寂しいというのが正直な所。
「歌」という文化自体をもっと大切に扱ってほしいのだ。
もう少し信念をもって「歌」と向き合ってほしい。
プロの歌手と歌い手との差は、歌に対する「信念」の差にあるのではないか。
まぁ「信念」云々は抜きにしても、リスナーに余計な邪念を抱かせたらシンガーとしては失格だと思う。正当に歌を評価してもらえない恐れがあるからだ。
プロシンガーは歌を聴かせている間、リスナーに邪念を抱かせることは少ないだろう。多くの人が純粋に歌声に酔いしれることが出来る。それこそが「プロ」たる所以である。
「歌」というのは楽曲を構成するパーツとしては特殊な存在だ。
「歌」も「楽器」同様、音の一部ではあるけれど、楽器以上に各々の個性が出やすくなる。つまり、偽物はすぐバレてしまうし、結果的に偽物が弾かれやすくなる世界ではないだろうか。
「ギター」「ベース」「鍵盤」などの「弾いてみた」動画も、プレイヤーごとにある程度個性が出るが、カバーにおいては音作りや弾き方のバリエーションには限界がある。結果として、個性の差もそこまで大きくなることはない。ところが、「歌」というのは、歌っている人間の個性が嫌でも出でしまうため、個々の差が明確に出やすくなる。
そうなれば当然、筆者のように、歌声を聴いてあれこれと敏感に反応するリスナーも出てくる。それがネガティブなイメージに繋がってしまうかもしれない。
「歌い手」のあなたへ
「この曲を歌っている理由」を、自らの「歌」で表現できるようになるべきだ。
ただ何となく「ヒットしているから」等の理由で歌う曲を選ぶのでなく、「この曲が歌いたくて歌っている!」という、明確な意思を持って選んでほしい。それを続けていれば「バックボーンが感じられる歌手」となりリスナーとの距離がより近いものとなる。
そこまでやった上で、「"自分"の歌」にしなければ、ただ歌が上手い人で終わってしまうだろう。そればかりか、私のような面倒くさいリスナーにいつまでもツッコまれ続けることになる。
「Goose house」 のアンチが絶えない理由はこの辺りにあるのではないか。個人的に彼らのカバーソングからはまったく信念が感じられないし音楽的な面白味もない。
一生カバーをやって広告収入で食っていくのなら、どうでもいい事だが、本気でプロシンガーを目指しているのなら、音楽との向き合い方を改めて見つめ直してほしい。
それではまた。
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